志賀島に行く船に乗って港に着き、そこから10分ほど歩き
海を見下ろす高台にひっそりと佇む志賀海神社。
目を瞑り手を合わせると怒涛が耳に響いてきます。
怒涛に包まれていく感じです。
ここは志賀島。
若い頃好きな場所№Ⅰで、浜辺でキャンプをして海水浴を楽しんだことも。
その頃はこの神社の壮大なる歴史を知りませんでした。
寺田氏から伸吾先生へ、そして私へとつながったこの神社は
思いがけない新たな繋がりを教えてくれることになります。
訪れた時にはまったく知らなかったことなのですが。
二人の作者の著書をこれから読んでいきたいと思っていますが、
この神社は弥生時代から始まります。
といいますか、一人の著者はこの志賀海神社を弥生時代から守ってきた
安曇族が弥生時代を作ったのだという説を唱えています。
安曇族がこの志賀島の海にたどり着いた時に弥生時代は始まったのだと。
そしてもう人の著者は信濃安曇族について語ります。
安曇野はこの志賀島にたどり着いた安曇族の名前なのです。
何故穂高神社 山の神社に船が祀ってあるのか。
なぜ博多のおきゅうととまったく同じ食べ物が安曇野に存在するのか。
この著者の奥さんは志賀島の出身であり、そして彼らは今穂高に
住まわれています。この志賀島と穂高は深いつながりが
あったのです。
そしてそこに蝦夷が登場します。
坂上田村麿呂が勇者として伝えられた
文献には三匹の鬼退治の話があり、その三匹の鬼の一匹は
東北の蝦夷のアテルイであり、そしては一匹は何と信濃にいた
安曇族のことでした。
別な歴史が語るように蝦夷も安曇族も侵略を目的とした活動はしていません。
侵略された側です。
それを鬼退治とは。
信濃安曇族はどこからきたのかを執筆した作者の記述の中に
蝦夷と安曇族の絆が書かれています。
海人の安曇族がどうやって穂高へと入って行ったのか。
それも無事に。そこには大いなる蝦夷の存在があったようです。
そして私がこの神社を訪れた時、その壮大なる歴史の中に突然
入り込んでしまうある偶然に出くわすのです。
偶然だったのでしょうか。
いえそんなはずはない。
弥生時代からこの神社を守り続けてきた安曇族の末裔の方と
私はその時出会いました。
そしてその地にもう一人この神社にお連れした方が
いました。
その時歴史が急速に戻って行ったのです。
そして私自身の存在もまったく無縁ではなく、ほんの少しその歴史の中にいたのです。
その方はこの神社が大変気に入った。とても良い気が流れているとお話でした。
後日 あの神社へ連れて行ってくれてありがとうというお礼の言葉もいただきました。
それほど気に入ってくださったのです。
まだ完全に読んでいませんうちにここまで書いていいのかどうかわかりませんが、
胸が震えるほどの感動を覚えました。