ある土砂降りの朝、朝早く中学生の子が飛び込んできました。朝食の準備をしていた母に、
新聞が一枚多く入っていませんでしたか?と聞きました。
彼はずっと雨の中を走り続けていたのか、激しく息をしていました。
一枚新聞が足りなかったようです。
母が、なかったわよと答えますと、また男の子は土砂降りの雨の中を走っていきました。
奥で新聞を読んでいた父が突然新聞を片手に台所に飛び込んできて、
「この新聞を持っていってやれ!」と叫びました。
母はすぐに追いかけましたが、もうどこへ走って行ったのか見当たりませんでした。
そのあと父は悲しい顔で「かわいそうに、新聞は見つからないだろうな。この雨の中を
走り続けるのだろうな。叱られたんだろうな」とぶつぶつ独り言を言っていました。
そしてその朝はずっと不機嫌でした。
雨の中を探し続けて走り続ける少年のことがずっときにかかっていたのでしょう。
こんなに優しい父が少年たちをどんな気持ちで送り出したのだろうかと今それを思う
時があります。
私は戦争当時の父の話がなかなかできませんでした。
父の生き残ったという後ろめたさを私もどこかで感じていた気がします。
でもキャプテンから父の話を聞いて少しは心が休まりました。
「優しい上官だった。優しい教官だった」と言ってくださってやっと少し解放された
気がします。
父のお葬式が終わった日の夕方、おかって口に生まれたばかりのような子犬が
いました。誰かが置いていったのだと思います。
今だったらこの家では、飼ってくれるかもしれないとと思われたのでしょうか。
追い出せば勿論死んでしまいます。
母はこんな日に殺生はできない。お父さんが置いていったのかもしれないと
その日から飼うことにしました。
チコちゃんと名づけたこの雑種の犬は14年母と共に暮らしました。
とてもかわいい人懐こい犬でした。